靉嘔と小コレクター運動
こんにちは。
多くの作家達と小コレクター運動のつながりについて,これまでみてきましね。
今回は,虹のアーティスト・靉嘔と小コレクター運動についてです。
デモクラート美術家協会から小コレクター運動へ
靉嘔を小コレクター運動と繋ぐ一つのきっかけとなったのは、デモクラート美術家協会でしょう。
デモクラート美術家協会とは、瑛九を中心とした若い作家たちによって1951年に結成した組織のことです。当時の日本画壇が権威主義的、封建主義的であることに反抗し、画家の自由な作品制作、発表の場をつくることを目的としていました。
靉嘔はその理念に共感し、1953年にデモクラート美術家協会に加入します。
そこで靉嘔は、瑛九を通じて、のちに小コレクター運動の中心ともなる久保貞次郎と知り合うことになるのです。
創造美育運動と小コレクター運動
久保貞次郎を知った靉嘔は、久保が主導する「創造美育運動」に賛同し,運動に参加するようになります。
小コレクター運動は、創造美育運動と並行して始まっていおり,創造美育セミナールで資金集めのために新人の作品をオークションにしたのがきっかけでした。
その中で靉嘔の作品も頒布され、収入を得て、また知名度をあげるための機会となったのです。靉嘔は大量の作品を制作し、1958年に渡米するまでに、毎月5種類の版画を30~50部ほど刷り、100点以上のリトグラフを制作しています。
靉嘔と小コレクター運動
小コレクター運動によって靉嘔は支援者を得て、評価を得ていくことになります。
特に,1966年、ヴェネツィア・ビエンナーレへの出品を機にして、靉嘔は「虹のアーティスト」として世界的な評価を得ます。このときヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として靉嘔を選出したのは久保貞次郎でした。
靉嘔にとって、活動を続け、後の評価につながる道を進むことができたのは小コレクター運動の力による部分も多分にあったのではないでしょうか。
文責:M.Ak